先生、ちょっとお話が


先生、ちょっとお話が

明け方にも関わらず目が覚めた。ここ忍術学園、本日は少しぐずついた陽気でポツポツと微かに雨の音も聞こえる。このところ愛刀の調子もどこか調子が優れない。
せめて顔を洗おうと床から起き出して障子を静かに開けた。

「気が重い…」

昼間は生徒たちで賑わう井戸の傍には、早朝というだけあって人っ子一人いない。
早速傍の瓶から水をすくって顔をビシャリと濡らす。冴えるような冷たさに、凝っていた雑念が幾分か除かれた。

いつものように忍たま長屋の一年は組の廊下に差し掛かる。すると、突然弟子の金吾がパタパタと部屋から出てきた。小さな手にぐいと手を引かれる。

「金吾、どうした」

「先生、ちょっとお話が…今の今まで眠れなかったんですよ!こちらにおすわりになってくださいね」
そうまくし立て、いそいそと押入の奥から座布団を引っ張り出してきた。折角ならばと板張りに腰を下ろすと何やらヌメヌメする感触に背筋がゾクッとした。

「な!気味が悪いじゃないか、一体何をしているんだ…」

薄暗い部屋の中で目をこらすと、床に銀色の筋が幾つも残っていた。どうやらナメクジが這いまわった跡らしい。

「先生、ごめんなさい…」

しおらしい様子の金吾。

「意地悪言わないであげてください、ナメクジは可愛いんですよっ!」

金吾と同室の山村喜三太がは頬を膨らませてナメクジの詰まった壺を差し出してきた。

「喜三太、戸部先生がかわいそうだよ…」

「廊下で立ち話でもいいんだぞ…朝だが音にさえ気をつければ」

少々部屋で過ごす気が進まない。それにしても、あの弱虫の金吾がここまで図太くなったとは驚いた。

「せんせい、内密の話ですからこちらでっ!」

涙目でお願いしてくる弟子。

少し気が引けたが、愛弟子が座布団まで引いてくれたのだ、断りきれず部屋の床に腰を下ろした。

「うーん…言いにくいんですが…」

目線をきょろきょろ、ためらっているような金吾。

「どうしたんだ、言ってみなさい」

「実は、先生と花房牧之介が恋仲だという噂が流れていまして…まさか、ホントに付き合っているんですか?気になって気になって夜通し眠れなかったんです…」

「わ、私が牧之介と付き合っているだと?まさか、恋仲だとでもいうのか!」

思わず十年来の大声を出してしまった。
全くこんな噂は何処から流れてきたのだろうか


「とんでもないな…捕まえて聞き出さなければ…」

全く心労が絶えない。はらわたがきりきりと痛くなってきた。
その時、早朝の長屋に聞きなれた声が響きわたった。

「とべしんざえもんー!この花房牧之介が勝負に来てやったぞー」

「あっ、あそこから!」

手を振る牧之介。

「げっ…」

最悪の頃合いというというかなんというか、入門票にサインしたその足で牧之介が走ってきた。わらじを雨に濡らしバシャバシャとさせながら時おり水たまりをタンと飛び越える。

「牧之介…私と恋仲だとかいう、根も葉もない噂を流したな…今度は何を企んでいる!」

地下足袋が雨と泥で汚れるのも気にならず庭に走った。

「お前…逃がさんぞ…」

じわじわ池のほとりに追い詰めると、牧之介が腕をバタバタさせて騒いだ。

「ま、待ってくれ、私はただ朝飯、いや、勝負に…」
隙を突いてとうとう着物の襟首を掴んだ。

「お前…本当のことを言え」

「ほんとに何もしてないッ!」

いつもの何か企んでいるような、にやにや笑いが見えると思いきや、牧之介は無言で首をぶんぶん振っている。

「ご。誤解か?」

「だから何もしていないと…それより早く勝負しないのか…流石に苦しいぞ…」

その時私の腹がギュルルと鳴った。同時に意識が遠くなる。

ゆらり…

「うわわわ!」
そのまま池に足を滑らせてしまった。ばしゃんと威勢のいい音がして水の中に沈む。雨が降っているからか時期の割に随分冷たい。会計委員会が下級生を従えて使っている程の池だ、深さには用心することはないだろうが早く出なければ。落ち着いて体勢を整え、立ち泳ぎする格好となる。

「ごぼごぼごぼ、ちょいと肩を貸せ…ぷはあ」

突然私に馬乗りになり、水面から顔を出そうとする牧之介。
途端、左脚に激痛が走った。重さでふくらはぎが攣ってしまったようだ。


「私を巻き込むなぁぁ!」

立ち泳ぎしていた体勢が崩れる。水を飲んだせいか鼻がツンとして酷く苦しい。

「大丈夫ですかぁ…!」

は組が騒ぎを聞きつけて走ってきたようだ。

「ごぽごぽごぽ」

牧之介は水をしこたま飲んで溺れかけていたがなんとか這い出た。私はといえば情けない事に脚が痙ったお陰で、綱で引っ張り上げられ地面に横たえられる。

「げほっげほっ、ふう助かった…故郷大和には海が無いからな…って、大丈夫か新左ヱ門!?」

「み、見るな…」

修行を欠かさない忍者といえど今年で三十五。寄る年波には勝てず、ただただ情けないこのところである。

折角数日前の晴れ間に干したばかりの着物が濡れねずみになったが仕方ない。
のろのろと痛めたふくらはぎを庇いながらふんどし姿になる。汲んでもらった水桶で泥をゴシゴシと擦った。物干し竿にようやく干し終わるとそのうちネズミ色の空から雨が降ってきた。これでは着物が乾かない…

同じくふんどしのみになり、あお向けで寝転がっている牧之介。

「刀が錆びて駄目になるぞ…」

慌てて刀を拭こうとする牧之介を横目で見ていると、つい雨降りの縁側でまどろんでしまった。
一刻は眠っただろうか。

「先生、顔が真っ赤ですよ」

言われている様をみて私も初めて気づいた。確かに顔が熱い。冷や汗もぽたぽた垂れている。

「牧之介、お前もか…」
寝転がっていたように見えた牧之介はいつの間にかぐったり床にへばりついていた。二人とも季節の変わり目でまだ冷たい水に濡れて熱を出してしまったようだ。
動かない体に鞭を打ち、何とか自室にたどり着く。
「お前な…」
1つしかない布団に潜り込み牧之介が寝床を占領していた。

「ふぁっくしん…!うん、私は寝るぞッ…何せライバルのよしみだからな…」


「戸部先生、どうします?
追い出そうにも病人のくせに素早くて…」

「すまん、風邪が伝染るかもしれんから放っておけ」


乱太郎きり丸しんベヱが帰ったあともくしゃみを繰り返しながら私の布団に居座る牧之介。
一旦は床から追い出したが、気を抜くと布団に入ってくる。
「うっ...!」
私はと言えば、頭がずきずきとして、最早相手をする気力さえない。

「ほれ、布団を半分貸すからこっちへ寄って来るな」

仕方なく布団を横向きにして二人とも足を外へ出す格好になった。不格好ではあるが休むためには仕方あるまい。

「あったかいな…」

すかさず布団に入ってくる牧之介。


「しんざえもんッ…あたまいたい…クシュッ!」

しかし熱に浮かされ、すっかりしおれた牧之介が体を寄せてくる。少し重いが抵抗する気は失せている。ぼさぼさの髪を撫でているとあっさり寝付いてしまった。私もほっと一息ついて静かに目を閉じた。
夜はっと目が覚めた。隣で牧之介がよだれを垂らしている。

この歳で風邪を引く羽目になるとは…
ここ数日調子が悪いせいか、無様に失敗してしまった自らを思い出し、忘れようと頬をばんばん叩く。
牧之介に負けるなど、どうして思いもしたのか。きっと長い雨のせいに違いない。過大なる妄想に支えられあれほど恐れた夜がゆっくりと更けてゆく。

遠くで騒ぎ声が聞こえる。明け方まで鍛錬していたらしい上級生が学園に帰ってきたようだ。下級生の笑い声もしてきた。しかし牧之介はまだ1人寝汚く熟睡している。そのまま放ったらかして身支度を整える。


「戸部先生と牧之介が一緒に寝ているのを見た人がいるらしいよ」

「やっぱり付き合っていたのか、何だかんだ破れ鍋に綴じ蓋かも知れないな、あの二人」

朝食の時だけで三度も聞く事になり、その度に訂正する羽目になった。

「誤解だぁぁ!!!!!」

何度も弁解し骨が折れた。誰がこんな噂を流したのか、全く…
本日は四日ぶりに晴れ間の覗く朝。

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