夏が始まる

まったく、どうなっているンだ……

寝床にしている岩屋をのっそりと這い出た牧之介は濁りきった目をしてぽつりと零した。
それにしてもびっくりするくらいに暑い日だった。太陽がまだ天上にまで登りきっていないのが嘘のようだ。熱気をはらむ地べたからはかげろうが立ち昇る。見ているものと幻との区別がつかなくなる位にはぼんやりしていた。
群青に塗りつぶされた空からは入道雲がむくむくと勝ち誇ったかのように湧き上がっている。いったいこの前までの長雨はどこに行ってしまったのだろう。うんざりとするほど眩しい空を薄目で見上げたまま思案する。
「うぐぅ!」
つうと垂れた汗が目の中に飛び込んだ。
思わずその場を転げ回る。

転げた表紙に思い出した。
確かあの場所はここからならそう遠くない。

一刻ばかり山道を歩いて着いたのは随分久しぶりに来る滝壺だった。
人っ子一人見当たらない淵はザアザアと水音だけで覆われている。

「この辺り……だったんだがな」
記憶におぼろげに残るあの寺はだいぶ前に戦で燃やし尽くされたらしい。在りし日の姿は何処にも見当たらず、夏草に侵食されたそこには代わりに真黒い焼けぼっくいが無造作に転がっている。

あいつらのことなんて知ったこっちゃない。命を取られないだけ儲けものだ。
あまりの変わりように牧之介は小気味よくさえ感じていた。
これは……もしかして
昔ひと月ばかり居た寺で使われていたものだった。岩陰には私が使っていた桶まで残っている。少々朽ちていたもののあの時の形を留めていた。
引き抜いた大小をかちゃんと揃えてから帯紐を解く。これだけ暑かったからしゅるりと解けない固結びがもどかしい。
この前までの長雨のせいでしばらく洗えなかった着物は随分草臥れていた。一張羅はこういう時不便でたまらない。ここ数日の間で腕や指があれだけ日焼けたというのに着物の下は相変わらず生っちろくてなんだかちぐはぐな気分になった。
淵を覗くと青黒い滝壺に映る私がゆらゆらと揺れていた。
着物と褌を引っ掴んでばちゃんと滝壺のいっとう深い所を目掛けて飛び込む。ヒヤリとした川の水が火照ったからだに染みていく。頭のてっぺんまで潜ってぎゅっと瞑った目をそっとあけた。上方できらきらと反射する水面が眩しかった。だからそれをずっと、息が続くまで眺めていた。

この頃牧之介は戸部のところに足を向けていなかった。むろん牧之介とあろう者が永遠のライバルを忘れ去る筈がない。

会いに行こう、今すぐに。

もうすぐ夏本番だ。いつの間にか林の奥からカナカナカナ夕暮れを告げる蝉の音が鳴き始めた。




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